44年1月17日 夜の御理解 (音声不良)




 氏子がままになって、神様がままになっておられないというような意味の頂くんです。ね。まあ、言うなら、私達はおかげを頂いて、神様の願いの方は成就しておらんと云うような、ね。それで私、ここ(いちりゅうじつ?)感じるんです。と言うのは、御造営の方も、まあ最後の(仕上げ?引き上げ?)。後、十人か二十人かのモンが集まって、一日でも出ればだいたい片付きそうなのに、やはり、(目的もちんたら?)内々で、(    頂く   )5名で、それに宮崎さんがちょっと入られて、6名でやっていて、昨日も今日もやっぱ(終日?)やってますけれども、まだ片付いておりません。最後に              。ですが、こういうような事なんかは、今までかつてあの、ここの合楽でっちゃないところでしたですね。いつも他所の方達ばかりで、あのあんな、御用をするち言ってました。沢山にあの、神様がままになっておるという感じがする。ね。例えば、なら一例を上げると、出て来んにゃなりませんけれども、だいたい今日は何時から用事出来ましたから、出て来ねばならないはずの人が出て来ないといったような事になって行ってる訳ですね。どういう事かと言うとその、結局はあの自分が中心。ね、神様を中心にしていつもおかげ頂いておる人達が自分を中心にしておる。ね、だから氏子はままになっておるけれども、神様はままになってござらんと云ったような感じのお知らせを頂いたという、今、お取次ぎさせてもらってから、そのお届けさせてもらいよりましたら、あの、天理教をこう頂くんです。天理教を頂く時にはね、結局あの自分自身の心を本気で見極めていない、見極めよらん。 ね、例えばその御用だけの事じゃありませんが、とにかく何かの(  )にその、いつも自分の心が神様に向かない、信心にならない。ね、教えに取り組まない。もうこれは、すでに神様がままになっておりなさらん証拠である。氏子がです、本当に助かってくれよという事が、神様がお喜びであり、神様がお喜びという事が、当然、なら神様がままになっておられる事なんですけれども。あの、そういうような例えば、心の状態というものですね。ただ自分の言う(     )事だけ、自分の思うておる事だけが願いながら、それも成就しないでイライラしておるような日々ですけど。いよいよ自分をその本気で、自分の心の中を深く反省しなければならない時である。思うてみりゃ見るほど、自分というものを見極めれば見極めるほど、信心も出けんのに、このようなおかげを頂いておるという事が分かれば、信心にならなければおられません、神様を中心にして行かなければおられません。ね、自分自身の見極めが本当に出来よらん。ね、自分というものの、自分というものを見極めが出来よらんところに、信心にならん。ね、いわゆる何時も自分が中心。それでいて、なら自分の思うようになって行ったと、それもならん。神様もままにならぬ、自分達もおかげが受けられないと云ったような状態の事じゃねえと私は思ったんですね。と言うても、自分の本意な、自分の、自分の思いと言うか、ね。 自分の思い通りになる事だけに、まあおかげを頂いて、神様の方の御用とか、神様の(御用の時に渡るような?)心の状態という事には、やはり、どういう心の状態に(ある?)ような事では、やはりあの、ね、心からやはり有り難いといったようなものは生まれて来ない。ね。結局、信心銘々、見極めが足らんのじゃないかと。このようなおかげを受けておるのにも関わらず、というようなものがない。ね。自分を本当にあの、見極めが足らんと、本当に出けてもおらんのに、こんなおかげを頂いてというその、そこんところば見極め出来ないところに、(           )ような、まあ皆さんが頂いておられるという事にもです、何か神様があの、天地の親神様が何かその、もどがしさと言うか、歯がゆさを(色んな在り方に?)受けておられるような感じが致します。それも、合楽の上に現れておる、そのように、ね。どうでも一つ、本気でもう一つ自分というものをいよいよ見極め、自分というものを、一番自分の信心が本当に出来ておらんどころではない、まあ、心の状態を見極めようともしないで、そんな事ばっかり「      」、ね、思いにならなかった事に、イライラモヤモヤばっかりしたりして、、もう神様もままになられん、自分達もおかげを受けられないと云ったような状態になって行っとるような気が致します。特に云うなら、「              」でも、ね、「      」の事からかつてない事です、ね。御信者の奉仕がいない、ただ内々だけで、しかも、どうでも教会の御用としてさせて頂かなければならない事が、しかも御造営の最後の引き揚げを、ここまでは出来ておるのに、最後の引き揚げのところにに、皆が、もうやれやれというのか何か知らんけれども、御用が出けていないと云うのは、そんな事じゃなかろうかという風に思いますですね。一つ、信心は自分と本当に、私でも、心がこの、荒立って参りましたり、身が荒くなって参りますと、御理解を頂く。御理解を頂くとずっと自分を拝見させて頂いておったり、心が神様に向けておるとです、心が充実した心の状態になって、そこから神様に心を向けることが出ける、ね。今日の自分を見ても、を、心を神様の心に通わせるような信心の充実感と云ったようなものが、体験されておるような気が致しますね。